祈りの方法

家庭連合 祈りのすすめ
自由祈祷で祈るのが日々の祈りです。
お祈りをするときは,まず初めに、「愛なる天のお父様」と祈ります。神様に対して、呼びかけから始まるのです。はっきりした主体がいらっしゃいます。祈りの相手がはっきりしているということが大事です。そして、終わりは、「真のご父母様のみ名によってお祈りいたします」で終わり、 「アージュ」で締めくくります。お祈りしてみてください。

神様の存在を確信したいと感じておられる人はお祈りの行動をしてください。
「神様は私の親なのですか?」「真の御父母様は私の親なのですか?」
「イエス様は、私の罪の為に十字架でなくなられたのですか?」
とお祈りしてみてください。
求める人には答えられる神様です。

超越的な神様としてすべての万物を創造なさる前、時間と空間が始まる前の無の状態、夜の暗闇の状態での見えない神様が「夜の神様」であられるのです。そして、有の状態、歴史が始まって、時間と空間を創造した後の動きの神様、摂理の神様と呼ぶことができる存在がすなわち「昼の神様」なのです。

文先生のお祈り

「私という存在も私たちという存在も、ただ神様から始まったという事実を幼い日に知った。ただそれだけなのに、そのことがむしろ恩讐であった。」
この事実をあなたならどのように感じますか?

  • 祈りの方法

    祈りには環境的刺激も必要です。

第一は祈祷するときはまず神様に挨拶をすることです。
「私は、だれだれです。」

第二は報告することです。
「私はこのようにしています」とよい事も悪いことも報告します。

第三は神様に尋ねることです。
「神様、この問題はどうしましょうか?」とたずねるのです。その後は、神様の答えを待たなければいけません。

「統一原理は、天地創造から始まって、堕落によって子を失なった神様の悲しみや、そこから人間を救おうとしてこられた復帰摂理における神の事情を私たちに教えています。まさしく、神様の事情を通してその心情を私たちに解き明かしている神学なのです。」

「宇宙の根本とは何かというこの問題に対して、祈祷して、神様にすがって大騒ぎをしても、教えてあげることができないのです。誰にも教えてあげることができない内容であるのを知らなければなりません。それはおかしいでしょう? 神様が教えてあげれば、天下に一日で統一が起きるはずですが、人間が誤ったので、人間自体が罪を犯したので、罪を清算しなければなりません。」(宇宙の根本より)

人間自体が堕落したので、神様との関係は、人間が求めて行かなくてはなりません。その方法の一つが「お祈り」です。

  • 祈りの基本原則

祈りをする場合、特別に難しい規則や原則があるわけではありません。最も基本的なことについて述べてみましょう。

 1.父なる神に対して祈る

お祈りをする時、私たちはまず初めに、「愛なる天のお父様」と祈ります。つまり呼びかけから始まるのです。私たちが行う祈りは、独り言でも、自問自答でもありません。
また瞑想でもなければ思索でもありません。はっきりした主体がいらっしやるのです。祈りの相手がはっきりしているということです。これが祈りにおける重要な問題です。
漠然とした何かに対してではなく、はっきりと天の父を見つめていかなければなりません。

 2.父母のみ名によって祈る

祈りの最後には「主(イエス様)のみ名によりお祈りいたします。」これは、今まではこの祈り方でしたが、統一教会ではさらに、「父母のみ名によってお祈りいたします」か「これらの祈りを尊き真のご父母様のみ名によってお祈りいたします」と、メシヤの名によって祈ります。
(このように主のみ名によって祈るということは、どのような意味があるのでしょうか。)
堕落してしまった私たちと神の間には、残念ながら溝ができ隔たりができてしまいました。私たちの罪の深い分だけ、神と私たちを断絶させ、溝ができてしまうのです。
そういう意味では、罪とは私たちと神とを隔ててしまうものということができるでしょう。その罪人である私たちが、神に祈りを受け取っていただかなければなりません。その時に、とりなしをしてくださるのが、すなわち救い主、メシヤなのです。(イエス様、再臨主)
「イエス様の最高の願いとは何でしょうか? 国をもつ前にまず何をもたなければなりませんか? 子供をもつ前に何をもたなければなりませんか? 妻をまず迎えなければなりません。しかしイエス様はそうできなかったので、伝道できなかったのです。息子、娘をつくれなかったのです。父母の資格で来たなら必ず父と母にならなければならないのです。それで統一教会では祈祷する時、「真の父母の名前で祈祷します」と言います。」

 3.最後に「アージュ」と唱える (以前はアーメン)
この「アーメン」というのは、ヘブライ語で「然り」「まことに」「真実に」という意味です。祈りの終わりにあっては、「しかあれかし」という意味で用います。旧約聖書の中でも、よく会話の中で確信を込めて言う時に用いられたようです。イエス様もこの言葉をよくお使いになっています。例えばマタイ伝の中に「よくよくあなたがたに言っておく」という言葉が度々出てきます。これも「まことに、あなたがたに言っておく」という意味でお使いになっている言葉です。
また私たちは何人かが一緒になった時、誰かが代表してお祈りします。例えば、山田さんなら山田さんが代表してお祈りするとします。そして、その山田さんのお祈りが終わる時に、私たちも表に声を合わせて「アーメン」と言います。その時の「アーメン」は、「まことに今、祈祷した山田さんと同じ心情です」という意味なのです。
また一人で神の前に祈る場合も、最後にやはり「アーメン」と締めくくります。その時も、「今、私があなたの前に捧げたお祈りの内容に、間違いございません。まさにその通りです」という意味で、「アーメン」と確信を込めて、確認するような心情をもって締めくくるのです。これはキリスト教徒であれば誰でもそうする世界共通の習わしです。
このように、最初に神に呼びかけ、そしてメシヤの名によって祈り、最後に「アーメン」と締めくくる、ということが最低限の祈りの基本です。
そして、統一教会では、2006年から摂理の進展があり、「アージュ」に変更になりました。(韓国語で「完全に」「とても」の意味)詳しくは

  • 祈る内容

1.基本的内容

告白・悔い改めの祈り
まず祈りに入る時、神様に思いを向け、神様に近づいていく努力をします。その時に感じられることは、自分のあまりの足りなさ、罪深さ、申し訳なさです。神様の前にあって、まず告白と悔い改めの祈りをすることが第一です。

感謝の祈り
深い悔い改めができた時、「このような申し訳ない、罪深い、足りない者でありながら、なおかつ許され愛されて用いられ、育てられている」という深い神様の愛を感じざるを得ないわけです。このような自分をなおも見捨てずに許して、許して、さらにまた許して、何とか天国にまで導いていこうとされる神様に村し、限りない感謝の念がわいてくるのです。そのようにして心からの感謝の祈りをします。

とりなしの祈り
とりなしの祈りとは、私たちが思っている周りの人のために祈ることです。他の人のために祈ることが、とりなしの祈りになります。

願い求める祈り
最も自分が願い、求めていることを神に訴えるのが、願い求める祈りです。

決意の祈り
このように、神の恵みを得て、再び出発できることを感謝し、「今日一日(あるいはこ週間、、カ月間)、また新たな気持ちで頑張ります」という決意を神に伝えます。
それ以外に、朝の祈りや夜休む前の祈り、食事の前の祈り、というように、いろいろな意味での祈りがありますが、内容的に見た場合には、以上のような祈りになります。

2.生活の中の祈り

祈りというのは決まりきったものではなく、生活の中の至る所で、自由自在になされるものです。祈りの応用は無限なのです。
祈りは台所の片隅でもできます。そこにも神がおられるのです。仕事を始めようとする時にも、祈りをもって始めることは大切です。

食前の祈祷
食事をする前に感謝の祈祷です。。万物を与えてくださる神様に感謝。
準備してくれたお姉さんに、お母さんに、奥さんに感謝して食べてください。
言葉に出してお祈りするのもいいですし、少し目をつぶり黙祷して食べるのもいいです。

職場の中で
ただ会社に行って仕事をするだけなら、それは単なる仕事に過ぎません。しかし、五分でも早く会社に行って、掃除でもして、誰もいない所で。屋上でも、どこでもかまいません。「神様、これから今日一日、六時までこの会社で仕事をさせていただきます。どうかあなたのみ意にかない、あなたの栄光を証すことのできるよう仕事をさせてください。」
こういうお祈りをして一日を出発すると、もはやその会社での仕事はただの仕事ではなくなり、神がかかわり合いを持ち始めます。神が関与なさるわけです。

台所で
主婦の立場であっても同じです。仕事を終えて、五時に家に駆け込んできたとします。ご主人が帰って来る六時半までには、家の中の整理をし、買い物をして食事を準備しておかなければなりません。あわてて買い物に飛び出して行くわけですが、しかし、その前に台所の片隈でたとえ一分でもい、いから、お祈りをしていくのです。「天のお父様、限られた時間しかありませんが、私に主人や子供を愛する愛情を与えてください。
そして主人や子供の喜ぶ食事を作らせてください」。そうしてスーパーに行くと、最初にパッと目に飛び込んだ物が掘り出し物だったり、準備した食事が「実は今日、これが食べたかったんだ」とご主人から言われる物だったりします。これが「導かれる」ということなのです。

車を運転するときに
車の運転をする人であれば、ハンドルを握ったら、アクセルを踏み込む前に、三十秒でもいいからお祈りをします。「天のお父様、これからどこどこの目的地にこういう目的で行きますから、どうか冷静に運転させてください」。みんながこの祈りを習慣づけるようになってから、目に見えて事故が少なくなった体験をしました。

人と話し合う前に
これから人と話をするというとき、そのままいけばただの話に終わるかもしれません。
しかし、その人と話をする前にたとえ数分でも、「これから誰々さんと大事な話をしにまいります。どうぞ私に語るべき言葉を与えてくださり、あなたが導いてください」と祈って行ったならば、それはただの話ではなく、神が導いてくださるのです。
このように、祈りは具体的、現実的なものであり、何も祈祷室の中だけでするものではありません。うれしいことがあった時は、踊り上がって走り回りながら、「天のお父様、本当によかったですね」と祈ることもできます。また悔し涙を流しながら、「神よ、申し訳ありません。悔しいです」と、神に心情を寄せながら共に泣くこともできます。美しいものがあれば、それを見ながら、「本当に美しいですね」と神と一緒に喜び、語らいながら歌うのです。そうなっていけば、祈りが生きたもの、生活化されたものとなります。将来においては、形としての祈りは必要なくなるでしょう。しかし、喜びや悲しみなどを味わう生活の中に、常に自然な神とのかかわり合いがあるのです。これが本来的な意味での祈りではないかと思います。

3.より公的な祈り

神に受け取られやすい祈りの秘訣は、まず公的なことから祈るということです。公的なことから私的なことへ、大きなことからだんだん小さなことへと祈っていくことが、よりよい祈りができる秘訣です。

私たちは往々にして、祈りの場に着くと、そのまま「神様、あれを下さい。これを下さい。これをお願いします」と、具体的な問題をすぐお祈りしてしまいがちです。いろいろな分野の中で、自分が今現実に抱えている問題だけを、最初から最後まで祈って終わるのです。御利益信仰のように、ものを求める祈りが存外多いわけです。こういう祈りだけでは、あまり高まることもなく、深まることもなく終わることが多いのです。

祈る場合、まず天の父に対して思いをはせていきます。「天の父よ:…・、お父様、お父様:…」と自分の念を額のあたりに集中させて、そこから神に向けて発するかのように祈るのです。目には見えない神であっても、間違いなくおられる神を見ようとして、思いをそこに寄せていきます。まず神に近づこうとし、神を引きつけようとするのです。
そのように、神の事情と心情を求めていくことが一番最初になすべきことです。あたかもレーザー光線を集中させ、すべてをぶち抜いて、神のもとに至ろうとするように、集中した思いをもっていくと、神が感覚として分かってくるのです。熱いものがひたひたと感じられ、神の事情や心情の一端が感じられてくるはずです。

すると、人類に対する神の悲しみの一端が分かってくるのです。そして、神がいかにこの世界を早く救いたいと願っておられるかが、感覚として、情感として伝わってきます。神の焦りが分かってきます。いまだ同胞がだまし合い、殺し合い、奪い合っている現状を目の当たりに見ている神の痛みや悲しみ、義憤が分かってきます。そうして初めて、この世界を何とかしなければならない、人類を救わなければならない、という気持ちがひたひたと起こってくるわけです。それと同時に、神の心情を御存じであるが故に、一
分でも一秒でも早く、人類の救いと世界の救いを成就しようとしておられる文先生の心情が分かってくるのです。

文先生のみ言に、「祈る時は自分自身を中心として祈らず、摂理歴史において願ってきた神様の心情を中心として祈らなければならない」(『御旨の道』祈祷)、また「あなたがたは神の国のため、神の義のため、世界、国家、神の解放のために祈るのです。それは祈りにおける主題なのです」(「祈りの重要性」)とあるとおりです。

(一部変更)
追加
サタンを訴える祈祷が必要。これは統一原理の復活論で紹介されていますが、肉身生活において、完成されずに他界した霊人たちが復活するためには、地上に再臨して自分たちが地上の肉身生活で完成されなかったその使命部分を、肉身生活している地上の聖徒たちに協助することによってなしとげようとすることですが、その時、善霊もいれば悪霊もやってきます。その時、悪霊がやってきたときには、「サタンよ去れ」「真の父母の名によりサタンよ去れ」と強く祈る必要があります。