【若江城のキリシタン】

若江城主となった池田丹後守教正は熱心なキリシタンであり、シメアンという洗礼名を持っていた。彼は若江城下に教会を設置し、城下にはキリシタンが多くいた。八尾・三箇(現大東市)・岡山(現四条畷市)と並ぶ河内キリシタンの中心だったといわれている。しかし、その後、若江などの河内のキリシタンの支援者であったサンチョの洗礼名をもつ三箇頼照が本能寺の変後に明智光秀に味方したことから没落し、さらに天正十五年(1587)、豊臣秀吉はキリスト教を禁止、その後もたびたび禁止令が出され、遂に徳川家光が鎖国をとるに至って、多くの信者が隠れキリシタンとなった。
秀吉が統治していた当時の日本の人口は、2~3千万人程で、その中で25万人ものクリスチャンがいたと言われている。その中心が河内地方であり、ここから京都奈良に波及している痕跡があるという。
豊臣秀吉はクリスチャン村が多く存在していたこの河内地方に迫害を加え、多くのクリスチャンが虐殺された。その骨を野崎観音本堂の後ろにある、小高い山に埋め、野々宮神社というカムフラージュして建てた祠がある。実は、野崎まいりは、野崎観音をお参りするようにして、実はその後ろに葬られた先祖の墓(野々宮神社)にお参りをする行事であったというのである。
このようにキリスト教に対する徹底的な弾圧が始まり、キリシタンは日本から完全に姿を消してしまったと思われていたが、実は「潜伏」あるいは隠れキリシタンとして存在していた。

1868年当時長崎近郊に2万人のキリシタンがいたといわれます。彼らはどのように信仰してきたのかというと、表面上はできる限り仏教、神道の信徒として飾って、内面的にはキリスト教を維持することだった。キリシタンが亡くなると、制度上は仏教の僧侶を呼んで葬式の一切をまかせなければならなかったが、キリシタンはその前にキリシタン同志の間で簡単な儀式を密かに行った後、仏教の僧侶を呼んで葬式をした。
それにしても、長い暗黒の歴史の中で偽装してキリスト教信仰を維持できたのは、村人がほとんど隠れキリシタンだったので、互いにかばいあい、隠しあったためである。

それにしても、キリスト教がどのように日本の土壌に定着していたのか。ザビエルが日本に来たときの日本のイメージは、インドや東南アジアのポルトガルの植民地とは違い、高度の文化を持ち、国民は知識欲に燃え、すべての男女が読み書きができ、学問的にも高いというのである。
したがって日本の宣教にはとくに優秀な宣教師が派遣されなければならない。宗教的文書による伝道にいち早く目を向けたのである。

どの階層がキリスト教を受け入れたかというと、新興武士たちで、キリスト教で発見した自由観、世界観、合理性に引かれ、目覚めたものと思われる。中には、国際貿易をねらい現世利益のために、入信したひともいるようであった。しかし、その人たちは、利益がなく自分が責められるとなると離教していった。いつの時代も、同じようなくり返しで神の御旨は進んで言ったようです。

この当時も僧侶との宗門論争が展開されていった。最後に日本人が越えられなかったことは、神観であった。唯一神がどうしても理解されないという問題があった。現代でも同じように、統一教会が伝道しても、唯一神の神様が分からないところが、最大のテーマになっている。

こうして、宣教が続いた時代もあったが、明治になるまで沈黙を続けていた。そして、再び日本が開国したとき今度はアメリカからプロテスタントの宣教師達もアメリカから送られてきた。
アメリカは特に優秀な宣教師たちを日本に派遣したので、キリスト教を伝えるというだけでなく、日本人全体に大きな影響をもたらしました。

2009年は1857年ハリスが来日して日米修好通商条約を締結して、その条約に従い、6人の宣教師が開港した神奈川と長崎に入った時から宣教150周年目にあたります。
この時を期に次々と宣教師たちが日本を訪れ、横浜、札幌、熊本などで布教した。中でもよく知られているのが札幌のクラーク博士の言葉である。「少年よ、大使を抱け」
このように、アメリカの宣教師たちは優れたフロンテイア精神の持ち主で最も純粋なピューリタンであった。直接は宣教をしなかったが、地理、歴史、化学を教えながら自然にキリスト教に接触させていった。また新約聖書とアメリカの憲法を英語の教材として引用し、キリスト教を説明することもあった。こうして、日本人の知識欲にあふれた人々が洋学を学ぶ中でキリスト教に入信して行った。