Q28

信仰生活で主体のために生きるとはどのようにすればいいのでしょうか?

A28
これはとても本質的な内容です。一番のテーマですね。文先生はこのように話しておられます。
「主体と対象の関係の、このような因縁を確実に知ったとすれば、すべてのものが、主体のために存在するものとならなければなりません。見ることもそうであり、聞くこともそうであり、また食べることもそうです。
御飯を食べるときも、「ああ、おいしい。ああ、おいしい」と食べるのは自分のために食べることですが、主体(神様)のために食べれば、「本当に有り難いことだ」と思うのです。「このような環境に私を連れてきてくれたので、きょうこのような立場で御飯を食べるのだな」と考えれば、一人で食べることにはならないのです。
それは、主体のために食べることなのです。寝ることも、そうです。「ああ、私が偉いのでこのように、こういう立場で寝られるのだ」というのではありません。「ああ、天が率いて滅びる運命として終わっても悔いのない私が、今日このようになったのは、その滅びる運命を防ぐために、天が何度も苦労した功があるからだ。本当に感謝する」と、このようでなければならないのです。

それゆえ、主体のための対象の立場には、不平というものがあってはなりません。不平を言えますか。不平は妄動です。破綻です。信仰の道は不平を許しません。それゆえ、感謝あるのみなのです。

神様に対する体恤は必要でしょう? したいでしょう? ですから何かの問題にぶつかったなら、自分一人で対処してはいけないというのです。先生が幼い時のころの修養の一つの表題が、それでした。「すべてのことは尋ねて決定しなさい、天に聞いて決定しなさい」ということです。万事を尋ねて、決定しなさいということです。それが絶対必要なのです。
(1972.6.25)