Q31

人間は知的人間と霊的人間に分けられるということを説明してください。

A31
人間は理論理屈だけではなく、心で感じて確信を得ることがあります。これは信仰生活の中においてとても大切なことなのです。体恤的生活をしないと確信にはなりません。

祈祷する中で、役事ということがあります。霊的な力が電気作用のように入ってくるのです。皆さんが体験してみれば分かるでしょうが、高圧に触れたような力が入ってくるのです。我々の意識よりも強い力が入ってくるので、これは他の世界の意識なのです。超自然的、超人的な感情が入ってくれば、我々の心、この肉身というものは堕落性をもっていますので、必ず本然の心情、本然の神の神性とは反発するのです。

ですから堕落した人間に、ある神の性禀が強力に入っても、自然的に順化する立場に立てないのです。これが入ってくる時はプラス、マイナスのように、音波も強弱で伝播されるように、必ずその力も一度にさっと入ってくるのではなく、強く入ってきたり、弱く入ったりして開拓されてくるのです。ですからここに振動が起こり、自分の意識が失われ、霊的力が強力に作用する現象が起こるのです。これが役事として現れるのです。

こんな役事がしきりに起こるとどうなるかというと、この肉体、肉性というものが、堕落性自体が順化していって、自然に100%受け入れるようになるのです。そんな現象ではなく、役事以上の場に入って、天の教えることがそのまま入るのです。このような現象の過程を経ていって、順化する立場までいかなければなりません。暗示、夢示、啓示、あるいは指示というか、こんな過程を経なければなりません。

このような体恤的信仰を、必ずもたなければなりません。心から感じること、体恤したことをもって実験を通して、体験の場に入ってくれば、その人は強くなるのです。誰の話を聞かなかったとしてもです。体恤と実践、これが我々の信仰生活に極めて必要なことであることを皆さんは知らなければなりません。

それではこんな境地に入るには、どのようにしなければならないでしょうか? だいたい人間を見ると二種類があります。知性によって真理として何かを探究して、理知に合えば認定し、理知に合わなければ否定するタイプの人間と、また一方はこのような理知よりも感によって把握する人間です。これを統一教会用語でいえば、霊的な人間と知的な人間です。霊的な人間は内的な面から感じていって、外的に適用しようという人間であり、知的な人間は外的な面から感じていって、内的に適用しようという人間です。一方は出ていくのであり、他は入ってくるのです。

知性的人間はだいたい祈祷を嫌うのです。「あ、祈祷、祈祷がなんで必要ですか? 天のお父様、天のお父様という言葉を何でいう?」実感がありませんよ。信じられず、迷信のようであり、自分自身で否定しているような感じがするのです。これが知性的タイプで理論を好み、何かを求めようという人間。そんな人間があると同時に内面から「神様!」という言葉が、とても好ましい人間がいます。説明するまえに、まず好いというのです。「アボジ」といえばごはんを食べなくても良いというのです。こんな人間がいるのです。 これは感度が違うのです。だいたい霊的運動において、革命的運動をする人間はどんな人間か? 知性的人間はダメなのです。私はそう見ます。信仰世界において偉大なことを成す人間は、知性的人間ではないのです。無識で愚鈍な人間です。こんな人間は霊的人間です。感じる通りにやってみるというのです。神がやれというのでやってみるのです。やるからこれが実践する環境になる、そんなことが起こるのです。このようにして偉大な人間も登場するのです。

パウロのような人は知性的人間なのです。ところが街道で、天の霊的雷に打たれて、回心したのです。ですから外的に探究するよりも、内的に、爆発的に感じる道がありますので、全部を否定して、これを尊重視するのです。ここに新しいキリスト教の革命の旗手になったのです。
自分がどんなタイプかを知らなければなりません。霊的に感じる人間は、霊的には大きいのですが、真理面では細っているのです。始めは太いのですが、終いが細くては、これはずっと同じではないので、永遠には行けないのです。ある時には、必ず転げ落ちるのです。また真理面は大きいのですが、霊的な面がこのように小さかったら、これが永遠には行けないのです。これを調整する生活をしなければなりません。

祈祷と真理、霊的心霊と真理で礼拝せよ、という言葉があります。これは何かというと平行していって和する場に入れ。人間は霊界と肉界を調整しなければなりません。霊的世界の中央に立ち、真理世界の中央に立って、中心的立場で左右を調整できる人間にならなければなりません。

霊的にのみ強いと、外的な面が欠如して(板書されながら)このように曲がってしまうのです。力の強い人間に引っ張られるのと同じです。真理面が強ければ、これが合わさって行くのに、右側に行ってしまうのです。こういう問題が起こります。これを調整しなければなりません。

1975年「体恤と実践より」