地域紹介

東大阪市はモノづくり・ラグビーのまちです。

東大阪市は西に大阪市、東に奈良県があり、自然の豊かな生駒山系のふもとに広がるまちです。「モノづくりのまち」「ラグビーのまち」として有名です。
大阪府では、大阪市、堺市につぐ3番目の規模があり、現在50万人以上の人口があります。
他には国民的作家の司馬遼太郎氏の記念館があります。

東大阪の歴史

東大阪市の歴史は、今から数万年前、旧石器時代に始まった。そのころの市域の大部分は海で、生駒の山すそが生活の舞台であった。

飛鳥時代は物部氏の勢力下にあり、東大阪市衣摺は、古代の大豪族の物部氏の本拠地のひとつであった。「お百度参り」で有名な石切神社は、物部氏が祭神を祀ったとされる。

奈良時代になると、平岡神社を管理し、鎌倉時代へかけての畿内武士団として名高い水走氏が大きな勢力を誇った。
この地域に奈良時代に、名僧行基菩薩によるいくつかのいわれが残っています。
慶雲元年37歳の行基は勅願寺であった薬師寺を捨て、民衆の中で布教を始めた。
当時近畿一帯は数年に亘り日照りや長雨が続き、民衆は飢餓と疾病に次々と倒れ、屍は野山に遺棄され生活は貧困を極めた。武者は家を捨てて盗賊となり、親に捨てられた子は路頭にあふれた。それを憂いた行基は河内の人々に向かって「信仰と善行を積んで幸せになろうと」呼びかけ、遺棄された屍を集めて荼毘に付し供養した。それらの場所が墓地として今でものこっている。長瀬墓地、岩田墓地、額田墓地、神立墓地、恒内墓地恩地墓地、植松晒墓地など河内七墓と呼ばれ今でも夜店などが出て賑わいを見せている。盆の14日に七墓を参れば、下の迷惑をかけずに極楽往生できるといわれている。
このような場所が教会の近隣にあります。

南北朝から室町時代にかけては、幾多の戦闘が河内を舞台に繰り広げられました。若江城(若江北町)では畠山氏や三好氏らが争い、後に河内キリシタンの拠点ともなりました。
【若江城のキリシタン】参照

江戸時代に入ると、村々の多くは徳川氏の代官や旗本の支配地となった。このころまで河内平野を南北に流れ、毎年のように洪水を繰り返していた大和川は、今米(現・大阪府東大阪市今米)の人、中甚兵衛らのたび重なる請願が実を結び、流路を西につけかえることとなり、広い旧川床や沼沢地は埋め立てられて新田となった。

明治14年から大阪府となり、河内、若江、渋川の3国に分かれていた市域の郡制も、中河内郡として統一された。

大正に入り、生駒トンネルの難工事が完成し、大阪電気軌道(現近鉄奈良線)が開通すると、市域は大阪の影響を強く受け始める。

昭和初期に東洋初のラグビー専用競技場として近鉄花園ラグビー場が建設された。以来、全国高校ラグビー大会や国際試合が行われ、ラグビーのメッカとなる。

戦後は農地から商業、工業、住宅の最適地として急激に変容し始め、昭和42年に布施、河内、枚岡の 3市合併による東大阪市が誕生した。

平成20年、市内の中小企業からなる東大阪宇宙開発協同組合が小型人工衛星「まいど1号」を完成させる。